第30回HITOTSU学公開講座(2008.6.8)


しあわせの真髄HITOTSU学の観点から見た老子・道徳経の世界:第9回

HITOTSU学講座での老子道徳経シリーズ。内容の解析は最終回となりました。
今回の16章から20章は、老子が生きていた戦国の時代、貴賎の別なく「生きる」ことを、どのようにとらえていたのかを知ることのできる章だと思います。そして、最後には「道」と出会った老子の独白を垣間見れる、興味深い内容だったと思います。

一人だけがイメージを得ても、現実の変化にはつながらない。新しいイメージと出会った存在の悩みや苦悩、分かち合いたい心が伝わってきたのではないでしょうか。

第16章は、究極に安全な生き方とは?について述べられている章でした。全ての存在の背後に隠れている、その存在を存在させる「虚」や「復」を知ること。その「静」と「命」こそが「常」であると言い切っている章です。
HITOTSU学の語る次元上昇したHITOTSUのイメージを学ばれた方には、老子の言わんとする意味がとても共感できたのではないでしょうか。
何よりも最優先で自らが「道」そのものになる生き方。忙しい現代人が見落としている原点そのものに戻れという警鐘を感じた方も多かったようです。

第17章は、太上(これ以上ない、最高の意味)のリーダーシップ、理想的な指導者のモデルについて語られている章でした。
なによりも信頼を重視し、①存在そのものが知られているだけのレベル②親しみをもって誉められるレベル③恐れ、畏まられるレベル④侮られるレベルと続いていきます。
そして、人々が自然に自分達で成功を成し遂げたと感じさせることができる存在のあり方が究極の信頼像として描かれています。

究極の信頼とは何なのか。条件付けられることなく、100%の信頼ができるのか。その信頼を得られる自分なのか。
柔らかで端的な言葉の中に、全てを悟って生きる人の強烈な自負心と確信を感じられる章であったと思います。先の見えない現代において、明確に全てを語っていくことのできる観点を得ることの必要性を理解していただけた方も多かったようです。

第18章は、大道廃れて仁義あり。一説としては儒教の考え方を批判した文章としても知られている章です。仁義が流行るのは、「道」をないがしろにするからであり、真理の知恵がなくなって、偽物の意識ばかりが生まれてしまう。
何よりも自然そのものの姿を観ようした老子には、人間の価値観や知識によって構築された全てが錯覚であると映っていたのだと思います。人間の意識の世界で生きるのか、「道」とひとつになる生き方を選ぶのか。現代に生きる私たちにも、今一度選択を迫られていると感じた方もいらっしゃったようです。

第19章は、アイデンティティの定立。現代に生きる私たちも、自分自身の所属をどういったものととらえるのかは重要です。
老子は、そのアイデンティティが一番シンプルで全体そのものの真理とひとつになることを説いています。人間が作り出した聖俗や仁義、功利といった判断基準にとらわれることから、全ての問題が起きてしまう。
問題に対処する生き方ではなく、問題そのものがない生き方を目指した老子の考えがはっきりと感じられ、問題がなぜ生まれてしまうのかの本質に鋭く言及する章であったのではないでしょうか。

第20章は、今までの内容とは少し内容が異なり、老子自身の独白といったものでした。
「道」と出会い、イメージを掴んだ状態。私たちのHITOTSU学では「認識の勝利」と表現していますが、その時代、たった一人でその認識を得るということがどういうことだったのか。イメージの共有ができない辛さ、自分のほうが世の中の人々よりも悲観的なのではないかと感じてしまう老子の孤独。
2500年前に、そのイメージを共有できる術を持たなかった老子ですが、その悔しさや悲しさを感じます。

老子の伝えたかった世界を論理とイメージで現代に呼び覚まし、一人一人の生活の中に活き活きと伝えていける、そのための道具としてのHITOTSU学であり、認識テクノロジーであるともいえます。

思想哲学・科学技術の全てを整理整頓し、さらに応用活用していく新しい認識。そこから生まれる新しい自分と世界の観方を、ぜひ一人でも多くの方に伝えていきたいと思っています。

次回で最終回となります、新しい生き方と出会うHITOTSU学講座老子道徳経シリーズ、来月は質疑応答とまとめの回になります。最後までよろしくお願いいたします。